歴史の小ネタ帳
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東京駅周辺〜大手町方面
戦後60年。戦前の姿復元に期待を込めて

東京駅赤レンガ駅舎
丸の内オフィス街の景観の要となる東京駅赤レンガ駅舎。明治建築界の大御所・辰野金吾による「ルネッサンス」式赤レンガの建物は、夏の青空によく映える。竣工当時(1914年)は3階建てで、その華麗な姿でたちまち東京の新名所となる。しかし、終戦間近の1945年5月25日の大空襲で被弾・炎上し、戦後は3階が解体されて2階建てに、円筒形だった南北ドームの屋根は角型に変更された。現在、竣工時の姿に復元し保存する計画が進行中。復活も待たれるが、戦後世代は子供や孫に、“パパやママが丸の内で働いていたころ、東京駅は2階建てで角型だった”と懐かしがるのであろうか。

東京駅赤レンガ駅舎
JR東京駅赤レンガ駅舎
ナゾの銅像を起点にいざ、散策開始

井上勝像
東京駅丸の内中央口、丸の内駅前広場にある銅像。たいていの人が「この人誰?」と思うに違いない。彼こそは、「日本の鉄道の父」と呼ばれる明治の官僚、井上勝である。山口県萩市出身の元長州藩士で脱藩後、英国に密航しその後ロンドンに留学。鉱山技術や鉄道技術などを学び、帰国後はその新知識と技術を活かして新橋駅〜横浜駅間の鉄道開通 を始めとする数々の鉄道工事で陣頭指揮にあたった。まさに鉄道の発展のために捧げられた半生。それゆえ東京駅のまん前というこの公園に、像が築かれたのであろう。今も鉄道の行く末を見守っている、というわけだ。

井上勝像
井上 勝 像(JR東京駅丸の内駅前広場)
誰にも触れられないオフィス街の一角?

平将門の首塚
千代田線大手町駅から大手濠を目指しオフィス街を歩くと、ふと、周辺の空気とは明らかに違う一角が現れる。そう、ここは940年の天慶の乱でこの世を去った平将門の霊が供養されている場所のひとつ。伝説によれば、敗死し京で獄門にかけられた将門の首が、胴体を求め東の空に飛んでこの地に落ちたという。後に時宗の僧、真教上人によって供養、碑が建立された。さて、この碑の手前に近年建てられたらしき石碑がある。銘は「故蹟保存碑」。この碑が建立されるに至った謂れといえば…。
関東大震災(1923年9月1日)復興の折、大蔵省がここに仮庁舎を建てようとしたところ、工事でけが人が続出し、当時の大蔵大臣にも不幸が…。工事は中止。将門の霊を疑い、その霊を鎮めるために碑を建立したのは、他ならぬ 大蔵省である。

平将門の首塚
平 将門の首塚(大手町2-7)
丸の内1丁目
“皇居前”という立地に建つ民間ホテルの理由

パレスホテル
大手濠の水面を右手に眺めつつ内堀通りを丸の内方面に向かうと、和田倉濠に面したパレスホテルが見えてくる。“皇居前”とうたうこのホテル、戦前は林野庁の前身である帝室林野局という役所があった場所。戦後GHQの意向により“ホテルテート”という外国要人向けの国有国営ホテルに改築され、「アメリカ大使館に」と注目されたこともあった。しかし、「皇居の前に星条旗が翻るのはいかがなものか」という有志の声により、民間に払い下げられたという。
とはいうものの、やはり皇居、皇室との縁は深く、新任の外国大使が信任状を天皇陛下に捧呈する儀式「信任状捧呈式」の馬車行列は、以前はパレスホテルから発着されており、儀式後の宴もここで催されていたということだ。

パレスホテル
パレスホテル(丸の内1-1-1)
明治から脈々と続く俳句雑誌の発行所といえば…。

合資会社ホトトギス社
今年4月で1300号を迎えた俳句雑誌「ホトトギス」。発行所は丸の内の東銀ビル。現在、高浜虚子から数えて4代目に当たる曾孫、稲畑廣太郎が編集長を務めている。なぜ、丸の内で? という質問に、実は、ホトトギス発行所は、旧丸ビル開業時から入居していたという答え。当時、船川原町にあった発行所を、事務所的な利便さがある場所に移したいと考えていた虚子が広告を見て、即、旧丸ビルの賃貸借を申し出、“そんなハイカラな場所に此の地味なホトトギス発行所を持って行くことは…”という社員の心配をよそに引越しを敢行したのである。淡々とした中に潔さを感じるこの姿勢、戦中・戦後も続けられてきた俳誌のこころを感じる。発行所は、1996年5月、現在の東銀ビルに移設。虚子が使用した机や自筆の屋号などが残されている。

合資会社ホトトギス社
高浜虚子が愛用した机
ホトトギス社(丸の内1-4-2 東銀ビル5F)
丸の内2〜3丁目
丸の内七福神?清廉の神様に願うあなたの“幸福”は…?

くぐりえびす
日比谷通りと行幸通りが重なる角、赤レンガの東京海上日動ビル前にニッコリ微笑みながら行き交う人々を眺めている「えびす様」がいらっしゃる。正面 からその表情を眺めるとこちらも思わず“ニッコリ”したくなるほど豊かな表情をしたこのえびす様は「くぐりえびす」と呼ばれていて、鎮座されている台の幅30センチ足らずの隙間をくぐった人は幸せになれるというウワサ。そうと聞けば、トライしたくなってしまうのが人情というものだが、東京の目抜き通りの交差点、道行く人とビル警備の方の目を気にせずにくぐりぬけるのは、ちょっとした覚悟がいるでしょう。

くぐりえびす
くぐりえびす
(丸の内1-2-1 東京海上日動ビル本館
南西側エントランス前)
大正12年、突如東京駅前に現れたハイカラなビルヂングの「安全第一」読本

旧丸ビル「安全第一ビルヂング読本」
現在の丸ビルの前身、旧丸ビルは、1923年2月の開館。70年余の長きに渡り、オフィス就業者や来店者を迎え、日本の近代史と丸の内の変遷を眺め続けてきた。
さて、その旧丸ビルの“HOW TO 本”なるものが存在するのをご存知だろうか? 開館から3年後、当時の三菱地所部 赤星陸治によって執筆・発行された「安全第一ビルヂング読本」である。この本“ビルヂングに出入りする人々の注意すべきこと”をまとめた小冊子であるが、“分かりきったつまらぬ 事許りでお笑いの種ではあるが、分かりきったことを実行せずに分からぬ議論をして無駄 に時を過ごす方が寧ろお笑いの種”という序で始まる、現代にも通じる共同生活マナー本。なんで?と思いながらも思わず赤ペンでマーキングしたくなるようなご指南と簡潔な解説であふれた一冊である。
★丸ビルの歴史HPはこちらから

旧丸ビル「安全第一ビルヂング読本」
安全第一ビルディング読本
(1926年9月1日発行)
※現在、閲覧・貸し出し等は行なっておりません。
大正3年に設立された“交流”の場は現在も丸の内の憩いの場

MARUNOUCHI CAFE倶楽部21号館
生活に豊かさを求める人々が憩うメンバーズ倶楽部「MARUNOUCHI CAFE倶楽部21号館」。その名前の由来はといえば…?  1914年、現・新東京ビルの一部に、丸の内初の鉄筋コンクリート建築、「三菱21号館」が姿を現した。「東洋一の貸事務所」と称されたこのビルはその中に入居者同士の交流倶楽部「21クラブ」を開設。人々の親睦を図り、文化の開花に貢献することとなる。玄関や廊下、手洗いに至るまでを共同で使用する、現在では当たり前の貸事務所としてのあり方も、この時代にあっては斬新なものだった。ましてや、入居者同士の交流など!! そう、この“交流”というスピリットを継承したのが現在の「MARUNOUCHI CAFE倶楽部21号館」なのである。
★MARUNOUCHI CAFE倶楽部21号館のHPはこちらから

MARUNOUCHI CAFE倶楽部21号館
三菱21号館
有楽町方面
戦後日本の象徴的な場所

DNタワー21
日比谷通りと晴海通りの交差点近く、日比谷濠に面した一角に、列柱の均衡が美しい建物がある。これは、第一生命保険の本社ビル。現在は、隣接している農林中金ビルとの共同開発で名称もDNタワー21と後ろに高層ビルを抱える形となっているが、前面 の建物である第一生命館は、渡辺仁と松本興作の共作で、シンプルさを持ちながらも威厳と記念碑性を感じさせるみごとな建築物。その風貌が気にいられたのかどうか、戦後の1945年9月から1952年7月までは、GHQが設置されたことでも有名。現在は公開されていないが、マッカーサー元帥の執務室があり、当時のままに保存されている。

DNタワー21
DNタワー21(有楽町1-13-1)
喧騒の駅前に佇む江戸の街の痕跡

南町奉行所跡
寛永期の南北町奉行所制定から、享保期そして明治と移転を繰り返した江戸町奉行所。関心事は、「大岡裁き」のフレーズが耳になじむ“大岡越前守”が活躍した地がどこであるか、に尽きる。 大岡越前守が江戸町奉行に任命されたのは1717年。当時は北町奉行所だったが、2年後には「南町奉行所」と改名された。それが、現在の有楽町駅南側からマリオンの北側にかかる一帯。唯一、その事実を今に伝える「南町奉行所跡」の記念碑は、有楽町駅駅前の交通 会館南側、道路を隔てた向かい側にひっそりと佇む。

南町奉行所跡
南町奉行所跡 記念碑
Marunouchi.com