1981年、東京都生まれ。2012年ドレスデン造形芸術大学修了。一般的なレリーフとは異なり凹凸が反転している立体作品を制作。粘土で成形した後、石膏で型をとり、原型の粘土を取り出し、空の雌型に透明樹脂を流し込む。物体の「不在性」と「実在性」を問い続けている。2014年より工場を改装した「私立大室美術館」で毎年敬老の日限定で個展を開催するプロジェクト「When I get old」を実施する。
表面には一人の女の子、金ぴかの裏面には青い鳥。よく見ると、女の子も鳥も凹んでる?中谷ミチコさんは、粘土で作った原型を石膏で型取ると凹みが入れ替わることに注目し、モチーフの凹凸が逆転したレリーフ作品を数多く手掛けています。
——今回の作品のコンセプトについて教えてください。
丸の内という場所に「一枚の紙」を置こうと考えました。私は作品をつくる際、まず白い紙にアイデアをスケッチするんですが、それがそのまま丸の内にペラっと立っているような彫刻です。どうしても丸の内のなかに壁をつくりたくなくて、紙のような柔らかい雰囲気のものであれば合うんじゃないかなと思いました。この彫刻の前を通ると、真っ白な空間のなかに女の子だけがぽっと存在しているように見える。アーチ型の構造にすることで、見る人の視野が都市から切り離され、一枚の真っ白な紙に描かれた絵の中の人と出会うように彫刻と鑑賞者が一対一になるような場をつくりたかったんです。
また、この作品は見る角度によって出っ張って見えたり女の子の視線が変わったりと、不思議な現象(錯視)が起きます。一般的に彫刻や絵画は鑑賞者が一方的に「見る」対象ですが、これは作品に「見られている」ように感じるはず。彫刻と鑑賞者の関係が逆転します。
——作品の見どころを教えてください。
表面にいる女の子は妊婦さんのイメージです。スカートで水たまりをつくり、そこに魚(赤ちゃん)を大事そうに匿っている。モチーフ自体は出っ張らずに凹んでいます。これは私の作品の特徴で、モチーフはどれも凹型になっています。一般的に立体作品=現実世界に実体があるもの、と認識されますが、凹んでいる場合はその逆で、この世界に存在していません。彫刻は、質量があり地球の重力を受けてこの世界に存在するものですが、私はあえて、「質量がなくても存在する」存在することを証明するために、制作を続けています。例えば「イメージ」の気配のありかなど。
一方、裏面は鏡面磨きになっていて、金色の支持体の中に見る人やその人の背景が映り込みます。ただし、表面は微妙に歪んでいるので、映し出された現実の世界はゆらぎ、唯一のモチーフである青い鳥だけがはっきりと虚像の中に浮かび上がります。
表と裏は異なる二つの世界なので、具体的な結びつきはありません。でも裏面は現実の世界が反射していて、凸凹による反転がいくつも起きている。あちらの世界とこちらの世界とか、イメージと現実とか、質量の有無とか、私がこれまでずっと考えてきてことが、この彫刻にも反映されています。街中にそういった無数の反転がポンと置かれた時、日常とは違う現実が生まれるような気がしています。
――道ゆく人にはどのように見てもらいたいですか?
私は普段、丸の内とは真逆の田舎の農村に暮らしていて、その土地や土を耕す人の存在が、自分の制作に大きく影響しています。今回のような屋外彫刻は、天候の変化への耐性をはじめ、風や地震で倒れないようするにといった検討事項が通常より多いんです。それでも、粘土を使って自分の手で原型をつくっていた時の“生”の感覚が、なるべくそのまま街に現れてくれたらいいなと思います。そして、この彫刻が丸の内という都会の中心地に置かれることで、私が日常のなかで大事にしている土臭さが、はっきりと立ち上がってくるんじゃないかと楽しみにしています。
とはいえ、子どもから大人まで、面白がったりこわがったり、自由に感じてもらうのが一番です。私自身、ちょっとこわいものをつくっている自覚もありますし(笑)。そういう不可思議なものが街中に堂々と存在できるのが、彫刻の良いところ。見た瞬間の反応だけではなく、鑑賞者のなかで何か、時限爆弾のようなかたちで印象が残り、いつか爆発するようなことがあればいいですね。
——数多くのパブリックアートが並ぶ、丸の内ストリートギャラリーへの印象はどんなものだったのでしょうか?
今回の制作が決まった後に、丸の内へ見学に行った日のことをよく覚えています。その日は土砂降りで、しかも夜。街の灯りが彫刻に反射する様子がとても鮮やかで、こんなふうに作品が景色に溶け込むものかと驚きました。四季や天気によって見え方は変わるけど、モノ自体は変わらない。その場が持つ異様さが面白かったです。
パブリックアートはすべての人にひらかれているので、そのことが表現の可能性を狭めてしまう危険性もないとは言い切れません。そこで私の場合は、どうやったら彫刻が個人的なものとしてあり続けられるかを第一に考えました。そこで、見る人の身体性に伴って見えるモノに変化が起きることは、その場所で自分の目で見ること、観察することなどを強く意識させるのではないかと思いました。ものすごく個人的なもの、個人的な視点——見る人と作品が一対一になれる状態——をパブリックな場に置くことで発生する出来事の一つひとつが刺激的だと思います。皆さんには、都市の中で“個人的に”この彫刻を鑑賞してもらいたいですね。